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【極地見聞録】
この度引っ越しをした際に、5,6年程前にある男(仮にKとしよう)が体を張ってジャーナリスティックな活動に勤しんでいたときの記録が荷物の中からひょいと顔を出した。
その記録にはある1つ2つの極地の詳細が事細かに描写されていたが、それ以上の記録は残されてはいなかった。
Kは世界の様々な極地を探検し、そこで見聞した事を記録に残す事で世に対して何らかのメッセージを伝えようとしていた様に思う。
今日はその記録の一部を紹介したいと思う。
『図1』と銘打たれた図は、彼が世界中の極地に行く際に常に拠点として滞在していた、タイ王国の首都バンコク(Krung Thep)にあるかつてはバックパッカーの聖地と言われたカオサン通り(Soi Khao San)の、その外れにある拘置所の見取り図である。
脱走を想定してのものか、入り口のすぐ頭上にはカメラが、また少し入った所にはもう1つの鉄格子の戸が設置されており、ここから逃げ出す事は容易ではないという事が分かる。
Kの記録によると、彼がここを最初に訪れた時には、図1右上の男子房には1人の中肉の白人がおり、その白人はオランダ人の様で、容姿は薄汚れており一体どれほどの期間その中で過ごしているのか分からないとなっている。
左下の女子房と、その他の男子房にはタイ人と思われる若い者が数名収容されており、各々の部屋に設置された鉄格子越しに何やら会話をしていた様である。
食事は朝・夕と2度、ビニール袋に入った米と野菜を混ぜ合わせたものが支給され、それ以外は面会者が持って来たものを口にする事ができる。
面会者との面会には必ず警官が立ち会い、会話はガラスと電話越しで行われる。
Kがここを2度目に訪れた際には、中年の日本人が2人収容されており、1人は『ガジロー』という体格の良い男で、大麻を数十グラム所持していた所を逮捕され、裁判所に行く前段階での拘置という事だった。
もう1人は、背の低い白髪まじりの『村上』という男で、彼が拘置所に収容された理由は単純な不法滞在という事だった。
[『ガジロー』のケース]
『ガジロー』は、カオサン通りを抜けた所にあるバーガーキングの裏通りに宿を取っており、そこにまだ残りの数十グラムの大麻があるので、Kにその宿の女主人である『ポーン』とコンタクトをとり、家宅捜索が入る前に処分してほしいと依頼してきた。
Kは面倒に遭うのを嫌ったが、とにかくその『ポーン』という女主人と会い、彼女を連れて改めて『ガジロー』に会う事にした。
『ポーン』は幸い英語を理解出来たので、Kは、『ガジロー』が拘置所にいて、あなたに助けを求めているとの旨を伝えると、彼女はすぐに拘置所まで行こうと言い、妹にその旨を伝え宿を後にした。
『ポーン』は『ガジロー』のお気に入りであるという袋入りのペプシコーラを途上で買い、拘置所へ向かった。
幸いにも『ガジロー』は未だ刑務所に移送されておらず、以前と同じ部屋に居たが、『ガジロー』は日本語以外には通じていない様子で、Kは『ポーン』との通訳をしなければならなかった。
『ガジロー』は自分の捕まった経緯等を『ポーン』に伝え、その上で保釈金の20,000バーツを前貸ししてほしいと言った。
『ガジロー』が言うには、彼のシティバンクの口座には百万円程の預金があり、保釈され、警察から所持品が返ってくればすぐにでも返せるとの事であったが、『ポーン』にとってみれば、20,000バーツというのは大金であり、ましてや『ガジロー』は宿賃の滞納こそしたことは無かったが、ただの旅客であり、そこまで信用してもいいものかという迷いもあり、結局その日は何も解決をする事無く皆は別れた。
結局Kは『ポーン』と問題の『ガジロー』の荷物を探したがどこにも見当たらず、彼にはこれ以上出来る事は無いとの決断を下し、新たな極地への準備を進めた。
『ガジロー』はその後、有罪判決を受け、刑務所に収容されたが、刑務所をその餌場とする『身元引き受け業者』に依頼し、その百万円の預金と引き換えに日本へ無事強制送還された様である。
[『村上』のケース]
Kが『ガジロー』から拘置所で助けを求められたその日、Kは『村上』から100バーツを貸す様に頼まれた。『村上』のその凄まじい剣幕に驚いてしまった事もあり、半ば条件反射的にKは『村上』に100バーツを差し出した。Kは『村上』に、返せるのかどうかの確認をとると、『村上』は、『村上』が拘置所に入る前まで根城としていた、『ママズ・ゲストハウス』に『澤田』という男が居り、その『澤田』に貸しがあるのでそこから取り立てて欲しいとの事だった。
Kは早速『ママズ・ゲストハウス』に向かい、『澤田』という男を訪ねた。
『澤田』は70にも届きそうなほどの薄汚い爺で、いかにも偏屈そうな顔をしていたが、Kは100バーツを回収する必要があったので、拘置所の『村上』の話を切り出した。
しかし『澤田』は自分には関係のない事だとだけ言い、部屋のドアを閉めた。
結局Kは100バーツを回収する事は出来ず、『村上』の件は忘却する事にした。
しかし後にKは再び『村上』と顔を合わせる事になる。
図2と書かれた紙には、通称『IDC』と呼ばれるタイの入国管理局の収容施設のある一室の見取り図が克明に描かれている。その広さや間取り、そして収容者の国籍等から推測するに、恐らく『12号室』の見取り図であろうと思われる。
Kは彼の定義する極地の1つにIDCを選んだ。
『IDC』では『◯◯号室』に振り分けられる前に収容される『控え室』の様なものがある。国籍・理由を問わず収容予定者全員がまずそこに入れられ、指紋採取等の事務処理を終えた者から『◯◯号室』へと振り分けられ、新しい環境で新しい面子とコミュニティーを形成していくのであるが、その『控え室』の衛生状態の劣悪さは特筆に値する。というのも、タイのトイレは手動の水洗であり、用を足した後は自分で桶で水を汲み便器を流すというシステムであるので、トイレの周辺は常に水浸しであり、且つそこには食器として使われる、4つほどに区切られたアルミのプレートが散乱しており、食事の際はそのプレートを洗って使わなければならないのである。
部屋には2つ程の公衆電話があり、万が一小銭を持ち合わせていない場合は同居人に両替を頼むしか無いが、皆が皆意図せぬ来場であるために、満足な結果を得られる事はまず無い。
Kがその『控え室』に収容された時には、大勢のバングラディシュ人と人工透析機を携行している中年のベルギー人と『ヒロ』という30歳の日本人がそこには居た。
タイは東南アジアにおいては比較的経済が発展している国であり、その周辺国からの密入国者や不法滞在者が後を絶たず、そのバングラディシュ人達も例に漏れず不法滞在者達であった。
その檻の外には沢山のクメール人(カンボジア人)が行列を作っていたが、バンコクからタイとカンボジアとの国境までは車で数時間ほどの距離しか無く、彼らは彼らの少しの持ち合わせで楽にカンボジアまで帰してもらえるのであるが、バングラディシュまでとなると、陸路では難しい為、空路をとらざるを得ず、不法労働者である彼らの経済状況では航空券を買う事は出来ないため、そのバングラディシュ人達は長期の『IDC』への収容が考えられる。
中年のベルギー人は現地の女を内縁の妻としている事と、金がある為ベルギーまで航空券を買い、強制送還されるという事を酷いフランス語訛りの英語でKに話した。
そして漸くKと『ヒロ』の事務処理が済み、晴れて彼らは『12号室』へと振り分けられたのである。
どうやら『12号室』の収容者は東アジアの者が多い様で、Kが把握している限り、日本人・韓国人(10名程度)・北朝鮮人(老人1人)・シンガポール人(2人)・インド人(1人)・オーストラリア人(2人)・アルジェリア人(1人)・ナイジェリア人(1人)・中国人(20人程度)がその部屋には収容されていた。
『ヒロ』とKが『12号室』に通されるや否や、メガネの片方がひび割れた中肉中背で色白の日本人が駆け寄って来た。
そして『ヒロ』とKは、彼らが日本人である事と収容された理由等をその日本人に告げた。
その日本人は『原サン』といった。
『原サン』は2人の新入りに事細かに『12号室』のルールを教え、そして多少大げさとも思えたがその部屋の人たちに、その新入りを紹介してまわった。
『12号室』を事実上取り仕切っているリーダーは、シンガポール人の『ケヴィン』といい、一見普通の中年のおじさんであったが、身体全体に入れ墨が入っており、腕の静脈に沿って穴ぼこが空いていた。
『ケヴィン』は他の収容者とは別の小さな個室に居を構えており、そこには他に『入れ墨だらけの若いシンガポール人』と、中年で入れ墨の入った角刈りの『陽気な韓国人』が住んでいた。恐らく彼らは『12号室』の『リーダー格』であり、彼らがその『12号室』に秩序を与えているのである。
事実、『6号室』では、毎日の様に暴力事件が起きている様で、皆口を揃えて『6号室』の恐ろしさを語っていた。
『12号室』には他に2人の日本人が収容されていた。1人は『伊藤サン』と言い、もう1人は、あの拘置所で100バーツを貸した『村上』であった。
[『村上』のケース]
『村上』は以前は日本の企業で働き、また当時は結婚もしており娘が一人居た。
出張で東南アジアに来るたびに現地で女を囲い、最終的に居心地の良いタイに『澤田』と沈没し、密告に遭い入国管理局に収容された。
歳は60代と見え、総入れ歯を着用していた。
その卑怯且つ卑屈な性格からか人望が余りにも無く、『伊藤サン』からは動物の様に扱われていた。
その後の消息は不明で、未だにIDCに収容されている可能性もある。
IDCでは日に2度食事が提供されるが、その献立に変化はほとんど無く、米に、野菜と鶏が少し入った炒め物である。そして2日に一度タンパク源としてのゆで卵が支給され、また日曜日の朝のみパンが支給される。
基本的に炭水化物に偏った内容である為、長期収容者の体はやせ細り、代わりに内蔵のみが発達し、皆ポコリとしたお腹をしている。
収容者に課される義務等は一切無く、皆毎日をただダラダラと過ごす訳であるが、外界との積極的な接触は一切断たれ、ただひたすら自分の状況を察した外界人からの面会を待つという途方も無い受動的生活の為に、気が狂ってしまった人も数名いた。ある中国人の青年などは、ただ日本人地域の周辺を一日中ヘラヘラと笑いながら徘徊し、これもまた『伊藤サン』に動物を追い払うかの様にシッシッとされて漸く自分の席に着くという有様であった。
図2の『日本の地域』の上方にある、『種々雑多な地域』には中国人、アルジェリア人、オーストラリア人が寝床を持っており、1人のオーストラリア人は元プログラマーのデブで、一言も喋らず、慢性のナルコレプシーにでもかかったかの様に一日中ずっと寝ていた。
もう1人のオーストラリア人は、分厚いメガネをかけた40代の男で『バイキー(暴走族)』をやっていたそうだが、非常に物わかりの良い紳士的な男であった。
[『バイキー』のケース]
『バイキー』の実家は金持ちであった。『バイキー』は母親に非常に可愛がられて育ったが、思春期の悪戯が高じてバイキーとなった。
そして人殺し以外の犯罪は全て経験し、20代に東南アジアに渡った。
彼が渡った頃のメコン・デルタは麻薬の楽園であった。その肥沃な土壌で育ったケシから作られるヘロインは瞬く間に世界を席巻し、そのヘロインから得られた利益を元に新たな精製設備を揃え、現地ではヤーバと呼ばれるアンフェタミンやメタンフェタミンが出回り、メコン・デルタは一気に世界のジャンキーの注目の的となった。
『バイキー』はラオスで女を見つけ、そこで暮らし始めた。
それから2年程経ったある日、『バイキー』は女とヤーバと共にラオスからタイに入って少しした所で逮捕された。
罪状は麻薬所持・使用のみであったか、営利目的も付随していたかは定かではないが、彼には30数年の刑が言い渡され、タイの刑務所へ収監された。
数度の恩赦を経て、彼は賞味20年程を刑務所で過ごし、そして刑期を終え、入国管理局である『IDC』に移管され、晴れて強制送還という運びになったのである。
オーストラリア政府はオーストラリア人に対しては非常に甘い様で、オーストラリアの国籍を持っている者であれば、国費でもって強制送還費用を負担若しくは前貸ししてくれ、『バイキー』もその恩恵に預かり、Kが収監されて3日経った日に20年振りに自国の地を踏むべく『IDC』を後にしたのである。
『バイキー』は、『IDC』を去る前に、
「俺には母親の遺産が入ってくるんだ」
とKに告げた。
『IDC』に収容されている人間のほとんどは、中・長期に渡ってそこに滞在する・せざるを得ないという場合が多い。特に中国人に関して言えばそのほとんどが数年、十数年、数十年『IDC』の床を暖めているのである。
その中でも群を抜いて長い間『IDC』にいる中国人がいる。
日本人はその人を長老と呼び、敬意を表していた。
彼は『日本の地域』のすぐ横にいた。
長老の名に引けをとらないぐらいに長いヒゲを蓄え、歳の頃70代であろうか、どこから手に入れたか分からない段ボールで自らの家を作り、毎日常に家のメンテナンスを欠かさずに行っていた。そして、どこから手に入れたか分からない紙でキセルを作るのが非常に得意で、『伊藤サン』もそのキセルを一本作ってもらっていた。
『伊藤サン』はいつもそれで煙草を吸っていた。
[『伊藤サン』のケース]
『伊藤サン』は非常に男前な、5・60代の男であった。彼はとても形の整った鼻を持っており、日本には娘もいると言っていた。
彼は関東の出身で、学生時代は岩城滉一と同じ暴走族に入っており、日本ではVシネマの監督をし、テレクラをテーマにした映画を数本作ったと言う。
そしてタイのパタヤで船や女や大麻で遊び、結局パスポートも売り、摘発されて入国管理局に収容されたのである。
彼は一度、寝る前に横になってKと話をした事がある。
彼は、彼には怖いもの等何も無く、エイズさえも何も怖くないとKに告げた。
彼は足にケガをしており、それがなかなか直らない様であり、常に包帯を足首に巻いていた。
その後、『原サン』から、『伊藤サン』がHIVに感染しているという事を聴かされた。
『原サン』は『伊藤サン』の診断書の様なものを見てしまった折にそれを知ったのである。KにとってHIV感染者との直接的な接触はそれが初めてであり、
それからはそこの生活で若干気を遣わなければならなくなった。
その後『伊藤サン』は別の部屋に変えられたという話である。未だに『IDC』で生活をしているかもしれないし、死んでいるかもしれない。
『12号室』にはアフリカ大陸からの収容者が2人いた。
1人はアルジェリアの黒人である。夜には部屋に1つだけあるテレビから何故か日本の裏ビデオが流れ、そのアルジェリア人は寝転びながらいつもそれを見ているのである。
もう1人は敬虔なムスリムである、ナイジェリア人のミルである。彼は定刻になると床に布を敷き、メッカの方向に向かって礼拝をする。身なりもキレイであり、Kが、膝の破れたズボンを穿いていたのを見兼ねて、黒い半ズボンをプレゼントしてくれた事もあった。
『12号室』では、金があれば何かしらの物資を手に入れる事が可能であり、外界より若干相場は高いが、お菓子、煙草も手に入る。
それらは全てリーダーである『ケヴィン』が取り仕切っており、Kも数度『ケヴィン』のお世話になった。
[『ケヴィン』のケース]
『ケヴィン』はシンガポールのエリートであった。高度な教育を受けた後にシンガポールの軍で20年余り勤務した後、スパイまがいの事をし、タイに入国した。そこでヘロインを覚え、不良外国人として数年過ごした後に入国管理局へ収容された。彼程の頭脳と教養を持った人間ならばもう一度人生をやり直せるのではないかとKは思い、その事を『ケヴィン』に伝えたが、『ケヴィン』の答えは『NO』だった。
『ケヴィン』は本国に於いてスパイ容疑で指名手配されている身分であり、もし強制送還という手段をとった場合はまた本国で終身刑並みの罰か、若しくは死刑に処される為、『ケヴィン』にとってみれば、『IDC』で一生を過ごすか、本国で浮かばれない余生を過ごすかの2つしか選択肢は無く、今は楽しい仲間のいる、気楽な『IDC』しか考えられないのである。
恐らく『ケヴィン』は未だに『12号室』でリーダーをやっている事だろう。
『リーダー格達の部屋』の部屋では夜な夜なリーダー格達が楽しそうな声を上げてバクチを打っていた。少ない手持ちを賭けてか、若しくは晩飯を賭けてかは分からない。中年で入れ墨の入った角刈りの『陽気な韓国人』もその中にいた。
[『陽気な韓国人』のケース]
歳は50なりたてぐらいであろうか、男前な顔立ちをし、背は180cm近くあった。娘がおり、彼女は当時日本に留学中との事であった。その為か、その『陽気な韓国人』は日本語が少しできた。
彼はとても彼の娘を愛している様で、ある日Kに、娘に手紙を書きたいので手伝ってほしいと言って来たのでKは快諾した。彼は日本語で彼女に手紙を書きたかった様で、2人は切磋琢磨をしながら『陽気な韓国人』の娘へ対する愛情を文章にしていった。
彼は一見するに堅気では無い様に思えたが、なぜ『IDC』に長期に滞在しているのかは謎だった。
Kが強制送還される際、彼はKの元へ駆け寄り、彼のE-mailのアドレスを書いた紙を渡した。
彼はすぐそこを出るつもりでKにE-mailアドレスを渡したのかもしれない。
『IDC』に居る限り、インターネットへの接続は一切出来ないからである。
『12号室』には少なからず朝鮮半島からの住人がおり、彼らは基本的に朝鮮人のみとしかコミュニティーを形成しない様であり、事実Kはほとんど全くといっていいほどにその朝鮮人たちと接触をする機会を持たなかった。
Kが『12号室』にいる間に、その『朝鮮人コミュニティー』で、ある小さな事件が起きた。
『朝鮮人コミュニティー』には韓国人の親子もおり、その子供は12、3歳ほどの男の子であった。彼はその父親に命じられての事か、段ボールの箱を机代わりにしていつも何かしらの勉強をしていた。しかし、父親はその環境では、儒教などといった朝鮮半島に強く根ざしている精神までその息子に教える事は出来なかったのか、その息子はある日、『12号室』で唯一の北朝鮮からの住人である、80歳前後のおじいさんに対して、侮蔑的な発言をしたのである。
それに憤慨した北朝鮮のおじいさんは、大きな声でその12、3歳の少年を叱責した後、他の韓国人からも孤立してしまったのである。
Kはその事や、その北朝鮮のおじいさんのその後は把握していない。
しかし、Kが『IDC』を去る際に、一度も会話を交わした事の無いそのおじいさんが駆け寄り、笑顔で何かを伝えようとしているのである。
Kは頭の中にあるありったけの韓国語を引っ張り出し、
『ナヌン・イルボン・カムニダ(私は・日本・行きます)』
とだけ何とかおじいさんに言う事が出来た。
するとおじいさんは笑顔で親指を立てながら、Kに握手をしてきたのである。
北朝鮮人との接触などそれまで考えた事もなく、初めての事で動揺はあったが、やはり同じ人間であり、同じ温もりに触れ、それまでのバイアス等といったくだらないものがそれで一気に吹き飛んだとKは手記に記録している。
『IDC』では物資が極端に不足しており、キレイな紙を一枚手に入れるのも非常に困難である。しかし、Kと『ヒロ』はお菓子の包装か何かの厚紙を一枚手に入れ、それで将棋の駒と盤を作り、四六時中将棋をする事で余りにも暇である『IDC』での生活を凌いだ。最終的に2人は10日程度の収容期間の中で100局余りを消化し、Kが20勝ほどの差をつけ、2人のラット・レースは終わりを迎えた。
[『ヒロ』のケース]
『ヒロ』は新潟出身の30歳のホストであった。バンコクには好きでしばしば訪れていた様で、タイ語が片言で喋る事ができた。両胸に星形の様なカラフルなタトゥーが入っており、『IDC』に収容される前は、バンコクの蒸し暑い気候の中、黒いスーツを着て、ホスト業務を1人で行っていた。彼はバンコクで『ホスト』という仕事で成功するという目標があり、夜な夜な繁華街へ黒スーツで繰り出していた。
『ヒロ』が『IDC』に収容されるきっかけもやはり大麻だった。
カオサン通りの一本北にあるランブトリー通りをチャオプラヤ川方面に行ったところにあるカフェ・バーで女の子を待っている際に警官2人に職務質問をされ、後ろポケットに入っていた0.数グラムという微量の大麻が見つかり、45日間の服役の刑に処された。しかし彼の友人達が保釈金である20,000バーツを肩代わりしてくれたおかげで刑務所には1日のみの収監で保釈され、娑婆で44日間を過ごし、強制送還されるという事になった。
なぜKが『ガジロー』のタイに於ける顛末を知っていたかというと、『ヒロ』が1日刑務所で過ごした際に彼がそこで『ガジロー』と知り合った為である。
Kと『ヒロ』は同じ日に『IDC』に収容され、同じ日に強制送還されたが、『ヒロ』には帰りの航空券代を支払うのが手一杯であり、成田から新潟まで帰る金が無いという事でKにそのお金を貸して欲しいと依頼して来た。Kにもお金は無く、成田から新潟までぐらいの旅費なら出す事は出来たが、Kの帰るべき場所は成田から新潟までの旅費程度で賄える程近い場所ではなく、その様な額等持っていても持っていなくても同じであるし、Kの降り立つ空港は愛知に当時出来たばかりのセントレア空港であったが、そこから帰るべき場所までヒッチハイクで帰る自信もあったので、Kは『ヒロ』の申し入れを快諾し、代わりにKは『ヒロ』から彼の住所とE-mailアドレスを貰い、彼との接触手段を確保した。
結局『ヒロ』はKに借りたお金を返すつもりは無かった様で、KがE-mailで連絡をとってもなかなか返ってくる事は無かった。
しかし、後になって彼とコンタクトが取れた時には彼は再びバンコクにいた。『ヒロ』とKのお世話を身を削ってしてくれた人が入国管理局の局員に賄賂を贈り、何とか2人がブラックリストに載る事を避けてくれたのである。
それ以降の彼の消息は不明であるが、バンコクで今でもホストをしているかもしれない。
『IDC』には私物の持ち込みは認められたもの意外厳禁で、収容される前の事務処理の段階でチェックされる。しかし、Kの場合ギター等といったものは預けさせられたが、Kの一番望んだ、インスタントカメラだけは見つからずに持ち込む事ができたので、『12号室』を写真で収める事ができた。
しかし、看守はもちろんの事、収容者の目も盗んで撮影をしなければならなかったので、自由に写真を撮る事ができず、結局夜中にこっそりトイレに行き、Kと『ヒロ』と『原サン』の3人でトイレ兼水浴び場で写真を撮る事しか出来なかった。しかし、それでも3人は笑顔でその本来存在し得ない写真の中に収まっている。
[『原サン』のケース]
『原サン』は、東京出身であった。学も人並みで、容姿も決して良い方では無かった。美術の学校を出た後弁当屋に就職し、お金を貯めてバンコクに渡ったという。そしてそこで16歳の少女と恋に落ち、正式な手続きを踏まぬまま事実上の結婚をした。彼の事実上の妻の家族の助言で、法的な結婚手続きもせず、ビザも延長する事無く不法滞在をしながらその妻とその家族と暮らした。
彼は日本で貯めたお金で家族に家を買い、ベンツを買い与えた。
そして結婚生活を始めてから数年後のある日に、入国管理局の職員が彼の家を訪れ、彼は違法滞在者という事で『IDC』に収容される事となった。
彼は、その家族が密告したのではないかと思うとKに言い、Kもその通りだと思った。
しかし『原サン』は彼の家族を信じたかったし、事実信じていたからこそ日本の家族に世話にならずに『IDC』でタイの家族の助けを待った。
Kと『ヒロ』が『IDC』を出る日、『原サン』は笑顔で彼らを送り出した。しかし彼は寂しかっただろう。
後にバンコクに再び渡った『ヒロ』に依ると、『原サン』は『IDC』の中で頭がおかしくなってしまったらしい。
その後の彼の経過はKの記録に残されていないが、未だに『IDC』の中にいるのかもしれない。
この【極地見聞録】と名付けられた文章の内容の全ては実話である。




その記録にはある1つ2つの極地の詳細が事細かに描写されていたが、それ以上の記録は残されてはいなかった。
Kは世界の様々な極地を探検し、そこで見聞した事を記録に残す事で世に対して何らかのメッセージを伝えようとしていた様に思う。
今日はその記録の一部を紹介したいと思う。
『図1』と銘打たれた図は、彼が世界中の極地に行く際に常に拠点として滞在していた、タイ王国の首都バンコク(Krung Thep)にあるかつてはバックパッカーの聖地と言われたカオサン通り(Soi Khao San)の、その外れにある拘置所の見取り図である。
脱走を想定してのものか、入り口のすぐ頭上にはカメラが、また少し入った所にはもう1つの鉄格子の戸が設置されており、ここから逃げ出す事は容易ではないという事が分かる。
Kの記録によると、彼がここを最初に訪れた時には、図1右上の男子房には1人の中肉の白人がおり、その白人はオランダ人の様で、容姿は薄汚れており一体どれほどの期間その中で過ごしているのか分からないとなっている。
左下の女子房と、その他の男子房にはタイ人と思われる若い者が数名収容されており、各々の部屋に設置された鉄格子越しに何やら会話をしていた様である。
食事は朝・夕と2度、ビニール袋に入った米と野菜を混ぜ合わせたものが支給され、それ以外は面会者が持って来たものを口にする事ができる。
面会者との面会には必ず警官が立ち会い、会話はガラスと電話越しで行われる。
Kがここを2度目に訪れた際には、中年の日本人が2人収容されており、1人は『ガジロー』という体格の良い男で、大麻を数十グラム所持していた所を逮捕され、裁判所に行く前段階での拘置という事だった。
もう1人は、背の低い白髪まじりの『村上』という男で、彼が拘置所に収容された理由は単純な不法滞在という事だった。
[『ガジロー』のケース]
『ガジロー』は、カオサン通りを抜けた所にあるバーガーキングの裏通りに宿を取っており、そこにまだ残りの数十グラムの大麻があるので、Kにその宿の女主人である『ポーン』とコンタクトをとり、家宅捜索が入る前に処分してほしいと依頼してきた。
Kは面倒に遭うのを嫌ったが、とにかくその『ポーン』という女主人と会い、彼女を連れて改めて『ガジロー』に会う事にした。
『ポーン』は幸い英語を理解出来たので、Kは、『ガジロー』が拘置所にいて、あなたに助けを求めているとの旨を伝えると、彼女はすぐに拘置所まで行こうと言い、妹にその旨を伝え宿を後にした。
『ポーン』は『ガジロー』のお気に入りであるという袋入りのペプシコーラを途上で買い、拘置所へ向かった。
幸いにも『ガジロー』は未だ刑務所に移送されておらず、以前と同じ部屋に居たが、『ガジロー』は日本語以外には通じていない様子で、Kは『ポーン』との通訳をしなければならなかった。
『ガジロー』は自分の捕まった経緯等を『ポーン』に伝え、その上で保釈金の20,000バーツを前貸ししてほしいと言った。
『ガジロー』が言うには、彼のシティバンクの口座には百万円程の預金があり、保釈され、警察から所持品が返ってくればすぐにでも返せるとの事であったが、『ポーン』にとってみれば、20,000バーツというのは大金であり、ましてや『ガジロー』は宿賃の滞納こそしたことは無かったが、ただの旅客であり、そこまで信用してもいいものかという迷いもあり、結局その日は何も解決をする事無く皆は別れた。
結局Kは『ポーン』と問題の『ガジロー』の荷物を探したがどこにも見当たらず、彼にはこれ以上出来る事は無いとの決断を下し、新たな極地への準備を進めた。
『ガジロー』はその後、有罪判決を受け、刑務所に収容されたが、刑務所をその餌場とする『身元引き受け業者』に依頼し、その百万円の預金と引き換えに日本へ無事強制送還された様である。
[『村上』のケース]
Kが『ガジロー』から拘置所で助けを求められたその日、Kは『村上』から100バーツを貸す様に頼まれた。『村上』のその凄まじい剣幕に驚いてしまった事もあり、半ば条件反射的にKは『村上』に100バーツを差し出した。Kは『村上』に、返せるのかどうかの確認をとると、『村上』は、『村上』が拘置所に入る前まで根城としていた、『ママズ・ゲストハウス』に『澤田』という男が居り、その『澤田』に貸しがあるのでそこから取り立てて欲しいとの事だった。
Kは早速『ママズ・ゲストハウス』に向かい、『澤田』という男を訪ねた。
『澤田』は70にも届きそうなほどの薄汚い爺で、いかにも偏屈そうな顔をしていたが、Kは100バーツを回収する必要があったので、拘置所の『村上』の話を切り出した。
しかし『澤田』は自分には関係のない事だとだけ言い、部屋のドアを閉めた。
結局Kは100バーツを回収する事は出来ず、『村上』の件は忘却する事にした。
しかし後にKは再び『村上』と顔を合わせる事になる。
図2と書かれた紙には、通称『IDC』と呼ばれるタイの入国管理局の収容施設のある一室の見取り図が克明に描かれている。その広さや間取り、そして収容者の国籍等から推測するに、恐らく『12号室』の見取り図であろうと思われる。
Kは彼の定義する極地の1つにIDCを選んだ。
『IDC』では『◯◯号室』に振り分けられる前に収容される『控え室』の様なものがある。国籍・理由を問わず収容予定者全員がまずそこに入れられ、指紋採取等の事務処理を終えた者から『◯◯号室』へと振り分けられ、新しい環境で新しい面子とコミュニティーを形成していくのであるが、その『控え室』の衛生状態の劣悪さは特筆に値する。というのも、タイのトイレは手動の水洗であり、用を足した後は自分で桶で水を汲み便器を流すというシステムであるので、トイレの周辺は常に水浸しであり、且つそこには食器として使われる、4つほどに区切られたアルミのプレートが散乱しており、食事の際はそのプレートを洗って使わなければならないのである。
部屋には2つ程の公衆電話があり、万が一小銭を持ち合わせていない場合は同居人に両替を頼むしか無いが、皆が皆意図せぬ来場であるために、満足な結果を得られる事はまず無い。
Kがその『控え室』に収容された時には、大勢のバングラディシュ人と人工透析機を携行している中年のベルギー人と『ヒロ』という30歳の日本人がそこには居た。
タイは東南アジアにおいては比較的経済が発展している国であり、その周辺国からの密入国者や不法滞在者が後を絶たず、そのバングラディシュ人達も例に漏れず不法滞在者達であった。
その檻の外には沢山のクメール人(カンボジア人)が行列を作っていたが、バンコクからタイとカンボジアとの国境までは車で数時間ほどの距離しか無く、彼らは彼らの少しの持ち合わせで楽にカンボジアまで帰してもらえるのであるが、バングラディシュまでとなると、陸路では難しい為、空路をとらざるを得ず、不法労働者である彼らの経済状況では航空券を買う事は出来ないため、そのバングラディシュ人達は長期の『IDC』への収容が考えられる。
中年のベルギー人は現地の女を内縁の妻としている事と、金がある為ベルギーまで航空券を買い、強制送還されるという事を酷いフランス語訛りの英語でKに話した。
そして漸くKと『ヒロ』の事務処理が済み、晴れて彼らは『12号室』へと振り分けられたのである。
どうやら『12号室』の収容者は東アジアの者が多い様で、Kが把握している限り、日本人・韓国人(10名程度)・北朝鮮人(老人1人)・シンガポール人(2人)・インド人(1人)・オーストラリア人(2人)・アルジェリア人(1人)・ナイジェリア人(1人)・中国人(20人程度)がその部屋には収容されていた。
『ヒロ』とKが『12号室』に通されるや否や、メガネの片方がひび割れた中肉中背で色白の日本人が駆け寄って来た。
そして『ヒロ』とKは、彼らが日本人である事と収容された理由等をその日本人に告げた。
その日本人は『原サン』といった。
『原サン』は2人の新入りに事細かに『12号室』のルールを教え、そして多少大げさとも思えたがその部屋の人たちに、その新入りを紹介してまわった。
『12号室』を事実上取り仕切っているリーダーは、シンガポール人の『ケヴィン』といい、一見普通の中年のおじさんであったが、身体全体に入れ墨が入っており、腕の静脈に沿って穴ぼこが空いていた。
『ケヴィン』は他の収容者とは別の小さな個室に居を構えており、そこには他に『入れ墨だらけの若いシンガポール人』と、中年で入れ墨の入った角刈りの『陽気な韓国人』が住んでいた。恐らく彼らは『12号室』の『リーダー格』であり、彼らがその『12号室』に秩序を与えているのである。
事実、『6号室』では、毎日の様に暴力事件が起きている様で、皆口を揃えて『6号室』の恐ろしさを語っていた。
『12号室』には他に2人の日本人が収容されていた。1人は『伊藤サン』と言い、もう1人は、あの拘置所で100バーツを貸した『村上』であった。
[『村上』のケース]
『村上』は以前は日本の企業で働き、また当時は結婚もしており娘が一人居た。
出張で東南アジアに来るたびに現地で女を囲い、最終的に居心地の良いタイに『澤田』と沈没し、密告に遭い入国管理局に収容された。
歳は60代と見え、総入れ歯を着用していた。
その卑怯且つ卑屈な性格からか人望が余りにも無く、『伊藤サン』からは動物の様に扱われていた。
その後の消息は不明で、未だにIDCに収容されている可能性もある。
IDCでは日に2度食事が提供されるが、その献立に変化はほとんど無く、米に、野菜と鶏が少し入った炒め物である。そして2日に一度タンパク源としてのゆで卵が支給され、また日曜日の朝のみパンが支給される。
基本的に炭水化物に偏った内容である為、長期収容者の体はやせ細り、代わりに内蔵のみが発達し、皆ポコリとしたお腹をしている。
収容者に課される義務等は一切無く、皆毎日をただダラダラと過ごす訳であるが、外界との積極的な接触は一切断たれ、ただひたすら自分の状況を察した外界人からの面会を待つという途方も無い受動的生活の為に、気が狂ってしまった人も数名いた。ある中国人の青年などは、ただ日本人地域の周辺を一日中ヘラヘラと笑いながら徘徊し、これもまた『伊藤サン』に動物を追い払うかの様にシッシッとされて漸く自分の席に着くという有様であった。
図2の『日本の地域』の上方にある、『種々雑多な地域』には中国人、アルジェリア人、オーストラリア人が寝床を持っており、1人のオーストラリア人は元プログラマーのデブで、一言も喋らず、慢性のナルコレプシーにでもかかったかの様に一日中ずっと寝ていた。
もう1人のオーストラリア人は、分厚いメガネをかけた40代の男で『バイキー(暴走族)』をやっていたそうだが、非常に物わかりの良い紳士的な男であった。
[『バイキー』のケース]
『バイキー』の実家は金持ちであった。『バイキー』は母親に非常に可愛がられて育ったが、思春期の悪戯が高じてバイキーとなった。
そして人殺し以外の犯罪は全て経験し、20代に東南アジアに渡った。
彼が渡った頃のメコン・デルタは麻薬の楽園であった。その肥沃な土壌で育ったケシから作られるヘロインは瞬く間に世界を席巻し、そのヘロインから得られた利益を元に新たな精製設備を揃え、現地ではヤーバと呼ばれるアンフェタミンやメタンフェタミンが出回り、メコン・デルタは一気に世界のジャンキーの注目の的となった。
『バイキー』はラオスで女を見つけ、そこで暮らし始めた。
それから2年程経ったある日、『バイキー』は女とヤーバと共にラオスからタイに入って少しした所で逮捕された。
罪状は麻薬所持・使用のみであったか、営利目的も付随していたかは定かではないが、彼には30数年の刑が言い渡され、タイの刑務所へ収監された。
数度の恩赦を経て、彼は賞味20年程を刑務所で過ごし、そして刑期を終え、入国管理局である『IDC』に移管され、晴れて強制送還という運びになったのである。
オーストラリア政府はオーストラリア人に対しては非常に甘い様で、オーストラリアの国籍を持っている者であれば、国費でもって強制送還費用を負担若しくは前貸ししてくれ、『バイキー』もその恩恵に預かり、Kが収監されて3日経った日に20年振りに自国の地を踏むべく『IDC』を後にしたのである。
『バイキー』は、『IDC』を去る前に、
「俺には母親の遺産が入ってくるんだ」
とKに告げた。
『IDC』に収容されている人間のほとんどは、中・長期に渡ってそこに滞在する・せざるを得ないという場合が多い。特に中国人に関して言えばそのほとんどが数年、十数年、数十年『IDC』の床を暖めているのである。
その中でも群を抜いて長い間『IDC』にいる中国人がいる。
日本人はその人を長老と呼び、敬意を表していた。
彼は『日本の地域』のすぐ横にいた。
長老の名に引けをとらないぐらいに長いヒゲを蓄え、歳の頃70代であろうか、どこから手に入れたか分からない段ボールで自らの家を作り、毎日常に家のメンテナンスを欠かさずに行っていた。そして、どこから手に入れたか分からない紙でキセルを作るのが非常に得意で、『伊藤サン』もそのキセルを一本作ってもらっていた。
『伊藤サン』はいつもそれで煙草を吸っていた。
[『伊藤サン』のケース]
『伊藤サン』は非常に男前な、5・60代の男であった。彼はとても形の整った鼻を持っており、日本には娘もいると言っていた。
彼は関東の出身で、学生時代は岩城滉一と同じ暴走族に入っており、日本ではVシネマの監督をし、テレクラをテーマにした映画を数本作ったと言う。
そしてタイのパタヤで船や女や大麻で遊び、結局パスポートも売り、摘発されて入国管理局に収容されたのである。
彼は一度、寝る前に横になってKと話をした事がある。
彼は、彼には怖いもの等何も無く、エイズさえも何も怖くないとKに告げた。
彼は足にケガをしており、それがなかなか直らない様であり、常に包帯を足首に巻いていた。
その後、『原サン』から、『伊藤サン』がHIVに感染しているという事を聴かされた。
『原サン』は『伊藤サン』の診断書の様なものを見てしまった折にそれを知ったのである。KにとってHIV感染者との直接的な接触はそれが初めてであり、
それからはそこの生活で若干気を遣わなければならなくなった。
その後『伊藤サン』は別の部屋に変えられたという話である。未だに『IDC』で生活をしているかもしれないし、死んでいるかもしれない。
『12号室』にはアフリカ大陸からの収容者が2人いた。
1人はアルジェリアの黒人である。夜には部屋に1つだけあるテレビから何故か日本の裏ビデオが流れ、そのアルジェリア人は寝転びながらいつもそれを見ているのである。
もう1人は敬虔なムスリムである、ナイジェリア人のミルである。彼は定刻になると床に布を敷き、メッカの方向に向かって礼拝をする。身なりもキレイであり、Kが、膝の破れたズボンを穿いていたのを見兼ねて、黒い半ズボンをプレゼントしてくれた事もあった。
『12号室』では、金があれば何かしらの物資を手に入れる事が可能であり、外界より若干相場は高いが、お菓子、煙草も手に入る。
それらは全てリーダーである『ケヴィン』が取り仕切っており、Kも数度『ケヴィン』のお世話になった。
[『ケヴィン』のケース]
『ケヴィン』はシンガポールのエリートであった。高度な教育を受けた後にシンガポールの軍で20年余り勤務した後、スパイまがいの事をし、タイに入国した。そこでヘロインを覚え、不良外国人として数年過ごした後に入国管理局へ収容された。彼程の頭脳と教養を持った人間ならばもう一度人生をやり直せるのではないかとKは思い、その事を『ケヴィン』に伝えたが、『ケヴィン』の答えは『NO』だった。
『ケヴィン』は本国に於いてスパイ容疑で指名手配されている身分であり、もし強制送還という手段をとった場合はまた本国で終身刑並みの罰か、若しくは死刑に処される為、『ケヴィン』にとってみれば、『IDC』で一生を過ごすか、本国で浮かばれない余生を過ごすかの2つしか選択肢は無く、今は楽しい仲間のいる、気楽な『IDC』しか考えられないのである。
恐らく『ケヴィン』は未だに『12号室』でリーダーをやっている事だろう。
『リーダー格達の部屋』の部屋では夜な夜なリーダー格達が楽しそうな声を上げてバクチを打っていた。少ない手持ちを賭けてか、若しくは晩飯を賭けてかは分からない。中年で入れ墨の入った角刈りの『陽気な韓国人』もその中にいた。
[『陽気な韓国人』のケース]
歳は50なりたてぐらいであろうか、男前な顔立ちをし、背は180cm近くあった。娘がおり、彼女は当時日本に留学中との事であった。その為か、その『陽気な韓国人』は日本語が少しできた。
彼はとても彼の娘を愛している様で、ある日Kに、娘に手紙を書きたいので手伝ってほしいと言って来たのでKは快諾した。彼は日本語で彼女に手紙を書きたかった様で、2人は切磋琢磨をしながら『陽気な韓国人』の娘へ対する愛情を文章にしていった。
彼は一見するに堅気では無い様に思えたが、なぜ『IDC』に長期に滞在しているのかは謎だった。
Kが強制送還される際、彼はKの元へ駆け寄り、彼のE-mailのアドレスを書いた紙を渡した。
彼はすぐそこを出るつもりでKにE-mailアドレスを渡したのかもしれない。
『IDC』に居る限り、インターネットへの接続は一切出来ないからである。
『12号室』には少なからず朝鮮半島からの住人がおり、彼らは基本的に朝鮮人のみとしかコミュニティーを形成しない様であり、事実Kはほとんど全くといっていいほどにその朝鮮人たちと接触をする機会を持たなかった。
Kが『12号室』にいる間に、その『朝鮮人コミュニティー』で、ある小さな事件が起きた。
『朝鮮人コミュニティー』には韓国人の親子もおり、その子供は12、3歳ほどの男の子であった。彼はその父親に命じられての事か、段ボールの箱を机代わりにしていつも何かしらの勉強をしていた。しかし、父親はその環境では、儒教などといった朝鮮半島に強く根ざしている精神までその息子に教える事は出来なかったのか、その息子はある日、『12号室』で唯一の北朝鮮からの住人である、80歳前後のおじいさんに対して、侮蔑的な発言をしたのである。
それに憤慨した北朝鮮のおじいさんは、大きな声でその12、3歳の少年を叱責した後、他の韓国人からも孤立してしまったのである。
Kはその事や、その北朝鮮のおじいさんのその後は把握していない。
しかし、Kが『IDC』を去る際に、一度も会話を交わした事の無いそのおじいさんが駆け寄り、笑顔で何かを伝えようとしているのである。
Kは頭の中にあるありったけの韓国語を引っ張り出し、
『ナヌン・イルボン・カムニダ(私は・日本・行きます)』
とだけ何とかおじいさんに言う事が出来た。
するとおじいさんは笑顔で親指を立てながら、Kに握手をしてきたのである。
北朝鮮人との接触などそれまで考えた事もなく、初めての事で動揺はあったが、やはり同じ人間であり、同じ温もりに触れ、それまでのバイアス等といったくだらないものがそれで一気に吹き飛んだとKは手記に記録している。
『IDC』では物資が極端に不足しており、キレイな紙を一枚手に入れるのも非常に困難である。しかし、Kと『ヒロ』はお菓子の包装か何かの厚紙を一枚手に入れ、それで将棋の駒と盤を作り、四六時中将棋をする事で余りにも暇である『IDC』での生活を凌いだ。最終的に2人は10日程度の収容期間の中で100局余りを消化し、Kが20勝ほどの差をつけ、2人のラット・レースは終わりを迎えた。
[『ヒロ』のケース]
『ヒロ』は新潟出身の30歳のホストであった。バンコクには好きでしばしば訪れていた様で、タイ語が片言で喋る事ができた。両胸に星形の様なカラフルなタトゥーが入っており、『IDC』に収容される前は、バンコクの蒸し暑い気候の中、黒いスーツを着て、ホスト業務を1人で行っていた。彼はバンコクで『ホスト』という仕事で成功するという目標があり、夜な夜な繁華街へ黒スーツで繰り出していた。
『ヒロ』が『IDC』に収容されるきっかけもやはり大麻だった。
カオサン通りの一本北にあるランブトリー通りをチャオプラヤ川方面に行ったところにあるカフェ・バーで女の子を待っている際に警官2人に職務質問をされ、後ろポケットに入っていた0.数グラムという微量の大麻が見つかり、45日間の服役の刑に処された。しかし彼の友人達が保釈金である20,000バーツを肩代わりしてくれたおかげで刑務所には1日のみの収監で保釈され、娑婆で44日間を過ごし、強制送還されるという事になった。
なぜKが『ガジロー』のタイに於ける顛末を知っていたかというと、『ヒロ』が1日刑務所で過ごした際に彼がそこで『ガジロー』と知り合った為である。
Kと『ヒロ』は同じ日に『IDC』に収容され、同じ日に強制送還されたが、『ヒロ』には帰りの航空券代を支払うのが手一杯であり、成田から新潟まで帰る金が無いという事でKにそのお金を貸して欲しいと依頼して来た。Kにもお金は無く、成田から新潟までぐらいの旅費なら出す事は出来たが、Kの帰るべき場所は成田から新潟までの旅費程度で賄える程近い場所ではなく、その様な額等持っていても持っていなくても同じであるし、Kの降り立つ空港は愛知に当時出来たばかりのセントレア空港であったが、そこから帰るべき場所までヒッチハイクで帰る自信もあったので、Kは『ヒロ』の申し入れを快諾し、代わりにKは『ヒロ』から彼の住所とE-mailアドレスを貰い、彼との接触手段を確保した。
結局『ヒロ』はKに借りたお金を返すつもりは無かった様で、KがE-mailで連絡をとってもなかなか返ってくる事は無かった。
しかし、後になって彼とコンタクトが取れた時には彼は再びバンコクにいた。『ヒロ』とKのお世話を身を削ってしてくれた人が入国管理局の局員に賄賂を贈り、何とか2人がブラックリストに載る事を避けてくれたのである。
それ以降の彼の消息は不明であるが、バンコクで今でもホストをしているかもしれない。
『IDC』には私物の持ち込みは認められたもの意外厳禁で、収容される前の事務処理の段階でチェックされる。しかし、Kの場合ギター等といったものは預けさせられたが、Kの一番望んだ、インスタントカメラだけは見つからずに持ち込む事ができたので、『12号室』を写真で収める事ができた。
しかし、看守はもちろんの事、収容者の目も盗んで撮影をしなければならなかったので、自由に写真を撮る事ができず、結局夜中にこっそりトイレに行き、Kと『ヒロ』と『原サン』の3人でトイレ兼水浴び場で写真を撮る事しか出来なかった。しかし、それでも3人は笑顔でその本来存在し得ない写真の中に収まっている。
[『原サン』のケース]
『原サン』は、東京出身であった。学も人並みで、容姿も決して良い方では無かった。美術の学校を出た後弁当屋に就職し、お金を貯めてバンコクに渡ったという。そしてそこで16歳の少女と恋に落ち、正式な手続きを踏まぬまま事実上の結婚をした。彼の事実上の妻の家族の助言で、法的な結婚手続きもせず、ビザも延長する事無く不法滞在をしながらその妻とその家族と暮らした。
彼は日本で貯めたお金で家族に家を買い、ベンツを買い与えた。
そして結婚生活を始めてから数年後のある日に、入国管理局の職員が彼の家を訪れ、彼は違法滞在者という事で『IDC』に収容される事となった。
彼は、その家族が密告したのではないかと思うとKに言い、Kもその通りだと思った。
しかし『原サン』は彼の家族を信じたかったし、事実信じていたからこそ日本の家族に世話にならずに『IDC』でタイの家族の助けを待った。
Kと『ヒロ』が『IDC』を出る日、『原サン』は笑顔で彼らを送り出した。しかし彼は寂しかっただろう。
後にバンコクに再び渡った『ヒロ』に依ると、『原サン』は『IDC』の中で頭がおかしくなってしまったらしい。
その後の彼の経過はKの記録に残されていないが、未だに『IDC』の中にいるのかもしれない。
この【極地見聞録】と名付けられた文章の内容の全ては実話である。





未分類
【The Birth Of The Urban Village】
現代の楽園である『The Urban Village』がここに誕生した!




